小式部内侍の養父・森五郎太夫(五郎左衛門)

 

相生市に残る和泉式部の伝説では、養育に困った和泉式部が小式部を
捨て子にしてしまったが十数年、その事が忘れる事が出来ずにいた。
中宮彰子に共をして播磨国・姫路の書写山 圓教寺の性空上人に教えを乞いに行ったとき
和泉式部は相生に立ち寄っている。雨内村にさしかかった時、雨に降られ栗の大木に逃げ込んだところ
栗の木の枝が枝垂れて傘のようになり和泉式部は濡れずにすんだ。
偶然泊まった宿に子供が居り、聞くと拾われた場所や持たせた守り本尊の薬師如来像があり、
自分の捨てた子供と分かり、京に連れ帰った。その娘が後の小式部内侍である。

と言うのが相生市の和泉式部伝説(細かな所が違う物もあり)ですが、では五郎太夫の屋敷はどこにあったのか?

古文書では五郎太夫の屋敷は若狭野村にあると書いてあります。
今の住所では若狭野町若狭野の西の端、赤穂市有年とを分ける成林川が矢野川に
合流あたり一帯の土地が屋敷と田畑を含む、五郎太夫の土地だった様です。
(地図のピンクで囲んだ辺り一帯が森五郎太夫の所有地で約1500平方米)

成林川の合流地点近くに五郎太夫池と言われる池が存在していたそうですが今はありません。
地名には「五郎太夫池」として残っています。
今は若狭野須賀神社の北東側にある小式部残していった守り本尊が祀られている薬師堂も、元は所有地内にあり、

古文書に記されている薬師井だけが田んぼの端に残る。

若狭野村と五郎太夫の領地

この森五郎太夫は(五良太夫、五郎左衛門と書かれている古文書もある)小野好古の家系といわれています。
農民といえど、ただの農民ではなかったのです。

金田正男著『わかさの誌』には
五郎太夫宅は、成林川橋より四十米程北の谷川のほとりにあって、子孫は斉垣の「森」を古くから姓にとり、
屋舗も森屋と称し、一族は浅野家にも仕え、大正の末期まで居住していましたので、屋敷跡の南・北・東に、
今井戸が残っています。   と記載してあります。

五郎太夫所有地内

この写真を撮るのに立っているところも、向こうに見えている更地も、すべて五郎太夫の土地だったと言われています。

 
成林川 五郎太夫池跡
成林川。川の西側は赤穂市。 成林川のすぐ側のこの場所に五郎太夫池があった。
五郎太夫池跡から南方面 五郎太夫所有地
五郎太夫池跡から南方面のかつての五郎太夫所有地をみる。 少し南へ下ったところから五郎太夫池跡をのぞむ。
薬師堂が在った場所と井戸 薬師井戸と思われる井戸
最初に薬師堂が在った場所と薬師井といわれる井戸。2国が見える。 井戸アップ