相生市に残る和泉式部の伝説では、養育に困った和泉式部が小式部を
捨て子にしてしまったが十数年、その事が忘れる事が出来ずにいた。
中宮彰子に共をして播磨国・姫路の書写山
圓教寺の性空上人に教えを乞いに行ったとき
和泉式部は相生に立ち寄っている。雨内村にさしかかった時、雨に降られ栗の大木に逃げ込んだところ
栗の木の枝が枝垂れて傘のようになり和泉式部は濡れずにすんだ。
偶然泊まった宿に子供が居り、聞くと拾われた場所や持たせた守り本尊の薬師如来像があり、
自分の捨てた子供と分かり、京に連れ帰った。その娘が後の小式部内侍である。
と言うのが相生市の和泉式部伝説(細かな所が違う物もあり)ですが、では五郎太夫の屋敷はどこにあったのか?
古文書では五郎太夫の屋敷は若狭野村にあると書いてあります。
今の住所では若狭野町若狭野の西の端、赤穂市有年とを分ける成林川が矢野川に
合流あたり一帯の土地が屋敷と田畑を含む、五郎太夫の土地だった様です。
(地図のピンクで囲んだ辺り一帯が森五郎太夫の所有地で約1500平方米)
成林川の合流地点近くに五郎太夫池と言われる池が存在していたそうですが今はありません。
地名には「五郎太夫池」として残っています。
今は若狭野須賀神社の北東側にある小式部残していった守り本尊が祀られている薬師堂も、元は所有地内にあり、
古文書に記されている薬師井だけが田んぼの端に残る。 |