神崎与五郎 孝行井戸

『赤穂・忠臣蔵』で有名な赤穂四十七士の一人、
神崎与五郎(かんざき よごろう)の伝説が相生市の那波に残っています。
(江戸時代、元禄年間は那波は赤穂藩に属していました。)

神崎与五郎は岡山県人で、赤穂藩の一人でありました。御徒士目付け(おかちし又は、かちし・江戸幕府や各藩における徒歩で戦う下級武士の事)という役柄で ありましたが、全義士中の後ろから三番目の貧乏侍であったそうです。しかし、与五郎は藩中きっての孝行侍として知られており、度々御前にて主君と共に吟句 を楽しむ等、特別な待遇であったそうです。那波に役宅も与えられ、母と二人、つつましく暮らしていました。
ある日、その母が目の不治の病にかかり、常に孝道に心がけていた神崎与五郎は那波浦荒神山の国光稲荷社の龍堂に毎日、無心で祈願をしていました。
神崎与五郎孝行井戸
復興された孝行井戸の外観
   
与五郎の母が目を洗って病を治したという井戸の水
神崎与五郎孝行井戸内
そして七日目の夜更けに突如、御神殿の内より扉を押し開く音がしたと思うと、若い美女が手に三光の玉(日・月・星の玉)を持って現われ、後ろから天童一人が稲穂を持ち出現し、三光の玉は月夜のごとく辺りを照らし、大神は神崎与五郎の孝心を見て
「天下台より差し昇る、ご来光の光線を口にいただき、赤松の葉を噛みしめ、井戸水で目を洗え、塩水を飲ませよ…されば苦悩去らん」とお告げがあり、神崎与五郎は早速下山し、お告げの如く行うと母の目の不治の病が治ったという伝説があります。

神崎与五郎孝行の井戸保存会看板より

神崎与五郎孝行の井戸保存会の方に伺いますと、
最初は井戸は塞がれてしまっており、
大変荒れた状態にあったそうです。
神崎与五郎孝行の井戸保存会の方々により、
この様にきれいに整備されました。