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國光稲荷神社

 

天コ神の出現

那波荒神山には、煎り豆荒神さんの荒神社の隣に國光稲荷社(くにみついなり)があります。

この國光稲荷神社にも不思議な話があります。

時は保元二年(1157年)、後白河天皇の時代。
伊豫水軍を率いていた河野伊豫守小千通清は伊豫水軍の分師を那波郷の丘の台より、大島にかけて作ろうとしました。
その頃、丘の台に一つの古墳があり、これを移動させて城を建てようとしましたが古墳に手を掛けた者は皆、次々と謎の大熱に冒されて苦しみました。

困った築城奉行の河合右衛門尉は、神を迎える儀式をし、身を清めて「何神がこの様に苦しめるのですか?」と聞きました。

那波荒神山 國光稲荷社
すると夜半、天下台の山頂に光を放ちつつ黒狐・白狐・金狐と白蛇を引き連れて、背に稲穂を背負った白髪白髭の老人が現われました。
「我は大歳神(スサノオと神大市比売(かむおおいちひめ)の間に生まれたのが大歳神おおとしのかみ)の子 にして天コ神と言う。古代よりこの地を神領としている宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ・大歳神の下の兄妹)に仕えて田畑を開拓し、五穀の豊穣と、豊漁を守っている。ここに従う者(黒狐・白狐・金狐・白蛇)は神通力で水利・除蟲を助け、多くの一族もいる。
故に、我が神を崇め奉れば天下泰平となる。」

この報告を聞いた河野通清は國光稲荷という名前をつけた社を建て、古墳を直し、御祀りました。
のち、那波浦丘の台を前殿とし、金剛山天下台山頂の洞窟を奥殿として、より熱心に御祀りしました。
 


國光稲荷大神の出現


応永三年(1396年)の夜半、那波浦の背にある麻布山(現在の宮山、那波八幡神社の後ろの山)の頂上の岩上に、四方に光明を放つ女神が現われました。
面立ちはたいそう美しく、日・月・星の三光の玉を背追い、左手には精ある宝珠を持ち、右手には無限に宝が詰まっている宝庫の鍵を持ち、白狐に乗っていました。

越智(河野)通則は驚き恐れ、「何の御考えがあって姿を現されたのですか?」と問うと
「我は宇迦之御魂神(五穀と養蚕を司る穀物神、 農耕神)にして、國光稲荷と称す。神代よりこの地を神領とし、後世の民の為に、荒野を開拓し、荒海を鎮めて農漁の発展を助け、天業(あまのみわざ)をし て、天と地に極み無く与え立榮えさせ、民を大切に育て、神の子孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に仕える。
なんじ、この地を領し、伊豫水師として我を崇めることは賢き事。なんじの世は太平となろう。』

この神託に従って桑原館右馬頭越智通則(くわばら ?? うまのかみ おち みちのり)と名乗り、國光稲荷を崇め奉った。

 
最上位 國光稲荷大神
天正七年(1585年)に羽柴筑前守秀吉は、越智播磨守と戦い、これにより那波浦丘の台にあった國光稲荷社は戦火に巻き込まれ、社堂と共に古記録・文書・宝物などおびただしい量が灰となってしまいました。
この始末に恐れた筑前守秀吉は天正七年十月二十五日、
加藤清正を使者とし、『最上位 國光稲荷 大神』との尊號を奉献したといいます。

 ― 以上『荒神山記より』

参考文献 『正統 那波史 西崎久史郎 著』