和泉式部が一度、小式部を捨て十数年後に若狭野に探しにくる話は多くの相生郷土史に書かれていますが、
都にもどり宮仕えし、子式部内侍に先立たれた後に昔を偲んで再び若狭野を訪れていたのは金田正男氏著の
『わかさの誌』にしか出てきませんが、とても興味深い話です。五郎太夫が子式部内侍を和泉式部に返し、子式
部の身代わりに守本尊をあずけるところまでは同じなのですが、『わかさの誌』には続きが書かれています。 |

この近くに小御堂も建っていたと思われます。
大正中期頃までは里の風習として、かならず土用の丑の日には
薬師井の水で風呂に入っていたそうです。
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『わかさの誌』より
和泉式部は子式部の身代わりの守本尊をおいて、
「大庭の巽(たつみ・年徳神としとく)に井戸を掘ると、
水は衆生の病患を救う、その辺にこの分尊(守本尊
の分尊石)を安置するように」と言い残して、別れを
告げました。
五郎太夫は井戸を掘り、小御堂を建てました。
霊験あらたかな、お薬師さんの水に入浴して、諸病
の救われた人々は、たくさんありました。
その後もこの水は、命の綱として、いつまでも時の
人に重宝がられました。 | |
子式部内侍は母の和泉式部といっしょに宮仕えをし、才智にあふれ、多くの恋をし、子供も生まれましたが
若くして亡くなってしまいました。25歳とも29歳ともいわれています。先に娘の子式部に先立たれた和泉式部は
「とどめおきて誰を哀れと思ふらむ 子はまさるらむ 子はまさりけり」と歌を詠み嘆き悲しみました。
上東門院は和泉式部が嘆き悲しんでいると聞かれて、子式部に授ける予定だった絹に『子式部内侍』と名札を
つけて届けました。和泉式部はまた涙を流しながら「もろともに苔の下にはくちずして うすもれぬ名をみるぞ悲し
き」と歌って絹の前に泣きふしたそうです。
晩年は、亡くなった我が子を想う余り、すべてを思い捨てて、子式部の育ての親と、生立ちの里に、執念をよせ、
萩風が吹く頃、京を旅立ち、書写に立寄り、播磨の広い野も足取りもどかしとばかり、疲れも忘れて、ようやく西
播磨の果ての里に着く。 五郎太夫は既に他界の人となっていました。
式部は「正道外道におもむきて余行を修し餘仏を念ず」と詠んで、若かった頃の華やかな生活から、今の哀れ
になった身の上話して、「懐かしいこの矢野の庄の、狭い野を、訪うとむらう(弔うの掛けことば)ことができて嬉し
いが、また悲しい」といって泣き伏しました。この話を聞いていた側の人は、みな袖をあててとも泣きをしました。
それから五郎太夫の森の大木に、二人(子式部と育ての親)の霊を封じて、亥の刻(午后十時頃)に、亥の子餅
を供え、自ら尻米縄しめなわを張り、永遠の冥福を祈願しました。(亥の子餅。陰暦十月上の亥の日の亥の刻に食
う餅、万病を除くまじないとも、子孫繁昌を祝うためともいう。)
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更地側から見た斉垣(いがき
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昭和50年頃まで二人の霊を封じた大木は存在し、しめ縄もされて
いたそうですが台風で倒れてから放置されたままだそうです
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供養の形見として、京より持参した梅の種を、各所の空き地に埋め、梅木の生育と共に氏うじの繁栄を言祝いて、
巡礼の守本尊をおき、子式部身代わりの守本尊(若狭野においていた)を身につけて、巡礼の旅に出て行きま
した。式部の生死は不明であるので、流離説話は各所にあります。 |
現在の薬師堂の本尊
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又守本尊は、文書にも伝教大師(最澄)の作といい伝えています。
和泉式部の巻物の文献もありますが、細しくはありません。
巡礼の守本尊は薬師如来であることを知り、時の人々と共に、新堂
を作り守本尊を移しました。堂のその後の移転や、改築は不明であ
りますが、西所上七一七番地にあった堂を、昭和二十七年に、現
在の浅野陣屋敷跡に安置されました。薬師井の辺の小御堂は、大
正の末期までありましたが、小御堂の分尊(石二個)と共に、本堂
の左に、奉祀しています。堂の両側前には、移転後部落が植えた
杉の木が伸びています。小式部の守本尊は姫路慈恩寺にあるそう
です。 | |
(五郎太夫の森の)大木は当時より氏と共に庶民の崇拝の的となり、庶民は式部も合祀し、斉垣いがきして神域に
しました。常に七五三しめ縄が大木に張られていた、若狭野の古木でありました。
大木も「いがき」が藪に変わり、一きわ高く繁り立っていましたが、心する人もありませんでした。栄枯盛衰の歴史
はたどるとは言うものの、あわれむべきことであります。昭和三十三年九月の十六号台風の時、老木は株もろ共
倒れました。時に計って見ましたら、幹元のまわり五米を少し余っていました。
式部が植えた梅の木も大きく育ち、梅の名所、産地として有名でしたが、木の寿命がきたのか枯死してしまい、今
では俤おもかげすら見ることができなくなりました。
斉垣、いがきとは、森老木の周囲に常盤木ときわぎを植えめぐらし、玉垣を結って神聖を保ったところ、即ち神の宿
る所であります。
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金田正男氏著『わかさの誌』より |
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