和泉式部伝説を育んだ歴史ロマンあふれる里・相生市若狭野(一)

月岡遊子

はじめに

 和泉式部にまつわる伝説は西條静夫先生の調査によると、全国に280箇所 もあるとのことでありますが、文献としては縁起書に基づく病の平癒祈願、薬師如来などの利益譚、捨て子譚、母子再会譚といったストーリーが主体でありま す。相生市に伝承されているものもこの分類に入りますが、他所と違うところは、養子譚と式部が再び訪れる供養譚が伝られていることです。それは千年をさか のぼる相生の歴史ロマンあふれる深い背景から育まれたものです。第一回は供養譚を除いた伝承文書、口伝を紹介しておきます。

1.相生市に残された和泉式部伝説に関する文書

 1)若狭野町雨内・教証寺「和泉式部系譜」(享保元年1716年)

   いつの事だったろうか、播磨国の歌枕を尋ねて、赤穂郡矢野庄雨内村迄来た時に 俄雨にあった。式部は、とある栗の木の下に雨宿りしたが、枝を引きた わめると、傘の ような形になって身をおおってくれた。この時式部は、
『苔筵敷島の道に行きくれて雨の内にしやどる木のかげ』
  と詠んだ。そこでその栗の木は「宿り木の栗」と呼ばれるようになった。また、その近  くには、形のよい立派な松の木があったので、式部は、
『歌の名の世に朽ちせずばこの松も以後までもあれ八千代ふるとも』
  と詠んだ。この松は「以後の松」といわれるようになった。
  又のある日、隣の若狭野村という処に五郎太夫という家があったが、そこの家の娘  が、綿を摘んでいるのを見て、式部が「その綿は売るのかえ」と問い かけると、娘が、
『秋川の瀬にすむ鮎のはらにこそうるかといへるわたぞありけれ』
  と詠んだ。式部は、娘が、幼いのにこんなに上手に歌を詠むのが不思議だった。
  そこで、この家の主人に娘の素性を尋ねると、主人は、「あの子は自分のこではあり
  ません。ある年、都の朝廷で人夫をお召しになったので上京した折、ある寺の辺りに  捨てられていたのを拾って連れ帰り、慈しみ育てたところ、教えな いのに上手に歌を  詠むようになったのです。」と言う。式部は、「私は、昔、子供を捨てたことがありす。
  その後何人かの子供を育てたが、皆早世したので、先に捨てた子が恋しくて、
『子は死にてたどり行くらむ死出の山道しらぬとてかへり来るかな』
  と詠んで、その子が手許に帰ってくるのを望んでいました。今、子のこの様子を見る
  に、私が捨てた子に間違いはありません。どうか私に返して下さい」と頼んだが、老   夫婦は「拾いとってから、長い年月馴れ親しみ、慈しみ育てたも のを、とてもお返しで  きません」と言う。
  しかし、老夫婦も式部の懇情もだし難く、「何か証拠になるものがありますか」と聞い  たところ式部は、「産着の紐に次の歌を書いておきました」と言 う。
『捨てた子をたれとりあげてそだつらむすてぬ情けを思ひこそすれ』
  証拠を示されて主の夫婦もいなみ難く、子供を式部に返すことを承知した。
  その夜、その家に泊った式部が、
『山里にねられざりけり夜もすがら松吹く風におどろかされて』
  とつぶやいたのを娘が聞いて、ねられぬものなら驚くこともなかろう、ねられるから風  の音でおどろかされ、目が覚めるのであろうと言った。そこで式 部が感心した。こうし  て、式部は、この娘を都へ伴い帰ったが、この子が後の小式部内侍である。

 (後藤益太郎氏による大要引用。西條静夫著・和泉式部伝説とその古跡から転載) 

2)森五郎太夫家譜

  相生市史第四巻に記録されている家譜は写しとられたものもので、原本は昨年、地  元若狭野で発見されました。概要と市史及び1)と原本との違いなど を列挙して、全   文紹介は省略致します。
   1.原本である I 家文書にはタイトルは書かれていない。
   2.名前は五良ではなく五郎である。
   3.最後の署名のところは、永延元年丁亥ヨリ森五良太夫年齢六十三歳書写之と
     なっているが、ヨリも書写之も原本にはない。
   4.原本では前半部で、小式部を預かった森家の家系について触れている。現在      は播磨国の若狭野村の農民であるが、小野妹子の末裔である 小野好古(平安
     時代の武将884〜968)の子孫であるという。(森五郎太夫家の子孫は今も健     在)
   5.好古は平将門の乱のときに、藤原住友を攻め、山陽道追補使として軍功を立      て、重賞を受け以後四代続いたが、人の中傷により罪を受け 官職を辞して専業     農家を生業とするようになった。
   6.天延3年都に上り仏霊社参詣した帰路式部精舎の辺りで拾う。
   7.娘13歳のとき、式部と出会う。
   8.式部はお礼に五郎太夫に長さ4寸余りの薬師の木造を与え、必ず利益を蒙る      といった。


 3)若狭野自治会保存・「和泉式部系譜」

  明治期に書き改められたもので、雨内の教証寺のものと内容的には変わらない。し  かし、代々自治会長が保管、大切に申し送りをされている。

 4)若狭野・浅野家文書「伊後松式部宿木録」
 
  最近、発見された那波・三木家文書の中の一つで、陣屋の里村なる人物(家老級)   が享保12年教証寺のものを写したものであります。

2.相生市に残された和泉式部伝説に関する口伝

 1)K.H氏・口伝

  K.H氏は和泉式部が、栗の木の下で雨宿りしたといわれる家の子孫の方でありま   す。
  「式部は結婚後、出産するも子供が居ては朝廷のお世話が出来ないので、若狭野か  ら朝廷に下働きに出ていた人がいて、その人に預けたという。ところ が彼女は子供   のことが忘れられず、はるばる瀬戸内海を通って雨内の山を越えてこの地に入り、K  家の前が昔ながらの道で、現在の石碑の前を通って 子供に会いに来た。そこから若  狭野へ行く途次、川で遊んでいた子供に問いかけると和歌で答えた。その人の所へ
  行って見ると自分の子供だった。昔は石碑の付近に小屋があり、毎年一回茶会の接  待をしていた。Hさんの母親は宿り木の娘と近所ではいわれていた。 若狭野の朝廷   に仕えていた人の家は、若狭野の西端にある荒神社の西にあった。」
  (平成18年4月、月岡が聞き書き)

 2)K.S氏・口伝

  「式部が修行中、室津の師匠について習ったとき師匠の子を宿し、雨内まで流れて   きたときに産み月となり、この栗の木の所で級に雨に遭い栗の枝を 引きたわめて身  を覆って、雨を凌いだとき産気づいて小式部を出産し、五郎太夫に預けて四国八十  八ヶ所巡りに行った。」
  (森本博 著・古岸山 教証寺と和泉式部 五郎太夫)

 3)金田正男氏の記述

  このあたりきっての長者であった五郎太夫が歌道をみがくため京に行ったときに、清  水坂を下りたある寺の庭で捨て子を拾った。
  (同氏の著書・わかさの誌には出典記載がない)

                                                以上


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